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日本語脚韻詩絶望論

浅見秀雄

まずはあらまし ないよりまし
 詩の分野で日本語脚韻を志向している人たちは、脚韻は末尾一音とその前の一母音を合わせる二重韻であればよいとしている。しかし実は、一般の人々は二重韻を聞いても脚韻と認識できないことが多い。それは、日本語の言語特性に原因がある。末尾二音を合わせる拡充二重韻なら十分に脚韻と認識できるが、探しにくいので、これで長い詩を貫くのは困難である。結局のところ、日本語脚韻詩が大衆に普及することは絶望的である。多くの人が作れてしかも一般受けする希望があるのは、せいぜい、キャッチコピーに見られるような、拡充二重韻の短句くらいである。

1.漢詩から発想 二重韻試そう
 私は、日本語で語呂の良い脚韻を踏めないものかと考え、漢詩の韻字の音読みに着目した。例として柳宗元「江雪」を挙げる。
千山鳥飛絶
萬徑人蹤滅
孤舟蓑笠翁
獨釣寒江雪
 韻字の音読み「ぜつ/めつ/せつ」は、末尾一音とその前の一母音が合っている。これにヒントを得て、この規則で詩を作ってみた。自作の
「野菊のごとき君なりき」の冒頭を挙げる。
我が想い出の里の山
叫べば君の名のこだま
ともに見つめし山の四季
幼なじみの君なりき
 後になって、私の発想は、詩の分野で日本語脚韻を志向している人たちの間ではこれでよいとされている二重韻と同じものであることがわかった。

2.響かぬ二重韻 リズムが原因
 「野菊のごとき君なりき」の詩では、漢詩の韻字の音読みと同じく、末尾一音とその前の一母音を合わせている。しかし私は、なぜか脚韻の響きが悪いように感じた。実際、インターネットに発表しても、詩情があると褒めてくれた人はいたが、脚韻の響きがわかると言ってくれた人は誰もいなかった。
 実は、漢詩の音読みとこの詩には大きな違いがあった。それはリズムである。
 「江雪」を、木魚を叩きながらお経を読むようにして音読みで朗読すると、次のようなリズムになる。木魚一拍ずつの区切りを「・」で示す。
せん・ざん・ちょう・ひー・ぜつ
ばん・けい・じん・じょう・めつ
こー・しゅう・さー・りゅう・おう
どく・ちょう・かん・こう・せつ
私は中国語を知らないので中国語の読みを示すことはできないが、中国語では一字が一音節であり、一音節の長さはすべて同じである。したがって、中国語でのリズムも上記の音読みのリズムと同じである。
 一方、日本語では二音ずつが木魚一拍(坂野信彦氏は著書「七五調の謎をとく――日本語リズム原論」の中で、このリズム単位を「律拍」と名付けている)に入るリズムになるので、同じように木魚を叩くようにして「野菊のごとき君なりき」を朗読すると、次のようなリズムになる。「○」は一音分の休止である。
わが・おも・いで・の○・さと・のや・ま○
さけ・べば・きみ・の○・なの・こだ・ま○
○と・もに・みつ・めし・やま・のし・き○
○お・さな・なじ・みの・きみ・なり・き○
 漢詩の音読みでは脚韻の二音が律拍の区切りに収まっているのに対し、七五調の「野菊のごとき君なりき」では脚韻の二音が律拍の区切りで分断されている。そのため、末尾一音の一致しか聞き取りにくいのだと考えられる(末尾一音だけの一致では脚韻として聞こえない)。その前の母音も合っているということは、一般の人々は、言われなければ気付かないだろう。
 実際、二音ずつの区切りに二重韻の二音が収まっていれば脚韻とわかるが、そうでなければ脚韻として聞こえないということは、私がそう感じるだけでなく、複数の人へのインタビューでもわかっている。比較の例を示す。
かわいい子猫 こするよおでこ (脚韻がわからない)
かわ・いい・こね・こ○
こす・るよ・おで・こ○
鏡見る時 あっと驚き (まだしも脚韻がわかる)
○か・がみ・みる・とき
○あ・っと・おど・ろき
 インタビューでは、これらを木魚を叩きながら聞かせるようなことはしていない。しかし日本人は、語や文節を自然に二音ずつまとめながら聞き取っている。俳句や短歌や都々逸や七五調のリズムが好まれることも、「モームス」(モーニング娘。)、「キムタク」(木村拓哉)などの四文字略語が好まれることも、そして、「かわいい子猫/こするよおでこ」の脚韻がわからず、「鏡見る時/あっと驚き」の脚韻はまだしもわかることも、すべてこのリズム論で説明が付くのである。

3.英語とのギャップ 埋めるためラップ
 外国語の脚韻に目を転じてみよう。
 英語の二重韻の例として「sailor/tailor」が挙げられる。「sailor/killer」では、末尾一音節が一致していても脚韻と認められない。
 英語の脚韻の規則は、「最後の強勢のある母音とそれ以降の音を合わせる」というものである。「sailor/tailor」は、どちらも第一音節に強勢があるので、二重韻として成立する。強勢のある音節の先頭の子音は、この例での「s」と「t」のように異なってもよい。この規則は、私が知る範囲ではフランス語、スペイン語、イタリア語でも共通である。おそらく、脚韻が行われているどのヨーロッパ言語でも同じであろう。
 余談だが、1931年に「日本詩の押韻」を著した九鬼周造は、「日本語にはアクセントがないから脚韻の効果がない」という日本語脚韻否定論に反論して、「日本語にアクセントがないからといって、それはフランス語にアクセントがないのと大差がない」と大嘘を書いている(九鬼はフランス語を知っていたにもかかわらず)。フランス語では最後の母音に強勢がある。文として発音するときは途中の語の強勢が消滅するので、英語ほど強弱のメリハリは感じにくいが、句末の強勢は残る。フランス語の脚韻の規則もほかのヨーロッパ言語と共通なのである。
 もう一つ余談だが、日本語に似て母音が五つしかなくて音節構造が比較的単純なスペイン語やイタリア語では二重韻が使われているから日本語でも二重韻でよいと思っている人がいるとしたら、それは大きな間違いである。スペイン語やイタリア語では、末尾から二音節目に強勢がある単語が多いから二重韻が多いのである。スペイン語やイタリア語でも、末尾音節に強勢がある単語を使った脚韻は単純韻(一音節韻)になる。
 ところで、脚韻が行われている中国語には強勢アクセントの概念はない。しかし、音節の長さは一定であり、その長さは日本語の一音よりも長く、音節は英語における強勢のある音節のように明瞭に発音される。したがって、すべての音節に強勢があると考えれば、脚韻が成立している理由はヨーロッパ言語と共通だと言える。
 さて、ヨーロッパ言語では強勢アクセントが脚韻の成立に重要な働きをしているという事実に着目し、また、ある日本語ラップ曲からヒントを得て、私は「風邪ひき」というラップ詩を作った。
季節変われば毎回ひく風邪
鼻はグスグスもうこりごりだぜ
しかも最近慢性寝不足
頭クラクラ体はゾクゾク
多分原因働きすぎ
飯を食うことさえ二の次

 ラップのリズムに乗せると、
○き・せつ・かわ・れば・まい・かい・ひく・
○は・なは・グス・グス・もう・こり・ごり・
という具合に末尾から二音目に強勢を置いて歌うことができ、その母音が強調されるので、二重韻がよく響いて感じられる。
 この詩は、ある小学校の先生に国語教材として取り上げられた。つまり、日本語脚韻の研究者でない一般の人の中に、脚韻の面白さを認めてくれる人がいたということである。

4.響くもの少なし 二重韻むなし
 「風邪ひき」の詩作実験結果にヒントを得て、句末の字脚(音数区切れ)が偶数なら二重韻が響きやすいという仮説を立て、七六調(「風邪ひき」における「多分原因働きすぎ」の部分と同じ律)の詩をいくつか作った。例として杜甫「絶句(無題)」の訳詩を挙げる。
江碧鳥逾白  川の緑に真白(ましろ)の鳥
山青花欲然  山は青々、花彩り
今春看又過  春は今年もまた過ぎゆき
何日是帰年  故郷離れて幾年月
 この詩のリズムは次のようになる。句末の字脚が偶数なので、脚韻の二音が律拍の区切りに収まっている。
○か・わの・みど・りに・まし・ろの・とり
○や・まは・あお・あお・はな・いろ・どり
○は・るは・こと・しも・また・すぎ・ゆき
○こ・きょう・はな・れて・いく・とし・つき
 第2節で述べたとおり、句末を偶数字脚にすればまだしも二重韻がわかりやすいということは、ほかの複数の人からも証言が得られている。しかし、末尾から二音目に意図的に強勢を置くことなく、日本語として普通に読めば、偶数字脚でも「ゆき/つき」のような二重韻の響きはあまり明瞭でない。私が漢詩の韻字の音読み「ぜつ/めつ/せつ」に自然に韻を感じたのは、漢語から写し取られた音の二音目(この場合「つ」)は弱く発音され、一音目が相対的に強く感じられるからと考えられる。つまり、末尾から二音目に強勢を置くのと似た効果があるのである。
 結局のところ、二重韻を踏む語として偶数字脚のものと奇数字脚のものが同数あると仮定すると、偶数字脚どうしの組み合わせの二重韻は全体の四分の一しかない。つまり、わかりやすい二重韻は多くはない。そして、そのわかりやすい二重韻の中でも、響きが明瞭なものはさらに少ないのである。

5.子音と母音 癒着も一因
 二重韻は、句末を偶数字脚に整えればまだしも脚韻とわかりやすい。さらに、末尾から二音目に意図的に強勢を置くか、あるいは末尾音が弱く発音される場合(漢字の音読みなどの場合)には、響きはかなり明瞭である。しかし、そうでなければ、末尾から二音目については母音だけが合っているということには気付きにくい。その原因には、日本語の音の特性も考えられる。
 角田忠信博士が著書「日本人の脳」で述べている研究によると、外国人は子音を左脳で、母音を右脳で聞き取るが、日本人は子音も母音も左脳で聞き取るそうである。私は、その理由をこう考える。外国語は子音と母音の組み合わせ(すなわち音節の種類)が非常に多いので、脳は言語音を聞き取る部位を音節ごとに割り当ててはいられない。だから、子音と母音を分離して聞き取るようになる。それに対して日本語では、子音と母音の組み合わせが百数十通りしかないので、脳は言語音を聞き取る部位を音節ごとに割り当てることができ、子音と母音を分離して聞き取る必要がない。
 つまり、日本語では子音と母音の癒着が強い。そのため、「こねこ/おでこ」における「ね」と「で」をまったく別の音として聞き取っており、母音が同じだといってもそのことには気付きにくい。一般の人々は、言われてみて「そういえばそうだね」と思う程度なのである。そして、続けてこう言うだろう。「だからそれが何なの?」。
 ところで、私が作ったフランス語定型詩の中に「tu es(テュエ)/jamais(ジャメ)」という脚韻がある。フランス語では句末の最後の母音に強勢があるが、強勢は英語ほど顕著には聞こえないので、日本語の「杖/駄目」と語感においてさほど大きな違いはないように聞こえる。しかし、「杖/駄目」はまったく脚韻として聞こえないのに対して、「tu es/jamais」は、末尾の一母音しか合っていないが脚韻として認められるし、日本人の私にも脚韻としてはっきりわかる。このことも、日本人も外国語を聞くときには子音と母音を分離して聞き取っていると考えれば説明が付く。

6.二音で響くだろう けれども一苦労
 末尾二音を合わせる拡充二重韻は、経験的に十分に脚韻とわかる。「セブンイレブンいい気分」、「インテル入ってる」というキャッチコピーが有名である。
 そこで、十分に響く拡充二重韻を多用するために、音数の縛りを緩め、七五調、七六調、七七調、七八調を織り交ぜてよいという型を作ってみた。音数が変動してもリズムが一定に感じられるということは、七七七五の都々逸からヒントを得てわかっていた。これで作った詩の一つが「コンピュータウィルス」である。
またも蔓延、社内にウィルス
相も変わらず注意がお留守
怪しいメールに付いてるファイル
クリックしちまう奴がいる
インターネットに飛び交うメール
世の中ウィルスのバーゲンセール
一人一人が気を付けなくちゃ
情報インフラめっちゃくちゃ
この調子で、48行にわたって拡充二重韻以上の脚韻を貫いている。友人や同僚からは、「うまくできている」、「面白い」、「大笑いした」というコメントをもらった。しかし、拡充二重韻は探しにくいので、このような詩は奇跡的にひらめいた時にしか作れない。
 拡充二重韻以上の脚韻を貫く長い詩は非常に作りにくいが、4行の漢詩訳はいくつか作ることができた。漢詩訳では、短い代わりに音数の縛りを厳しくして、古典的な七七調と七五調しか使わないことにこだわってみた。しかも、リズムの快さを考慮して、「七五/七五/七七/七五」、「七七/七五/七七/七五」、「七七/七七/七七/七五」のいずれかの律しか使っていない。例として朱熹「偶成」の訳詩を挙げる。
少年易老学難成  学び尽くさず過ぎる年
一寸光陰不可軽  まさに光陰矢の如し
未覚池塘春草夢  青春謳歌のパワーはどこへ
階前梧葉已秋声  気が付きゃ人生、秋の声
 これらの漢詩訳に対しては、ある高校の先生から、漢文の授業に使いたいとの申し出をいただいた。評価されたのは、日本語として自然な表現に努めたことが大きな理由だと思う。脚韻にこだわるあまりに言葉の自然さを犠牲にしていたら、誰からも注目されることはなかっただろう。しかし、日本人の感性に合う快い律、言葉の自然さ、わかりやすい脚韻をすべて成り立たせた詩を作ることは容易でない。どんな漢詩でもこの型で訳詩を作れるというわけにはいかなかった。

7.語を細工 短い句
 十分に響く拡充二重韻は探しにくい。これで長い詩を貫くのは困難である。しかし、拡充二重韻一組だけで、音数をあまり縛らないようにした短句ならけっこう作れる。
 私は、自分やネットフレンドの電子掲示板で、ネットフレンドたちを巻き込んで韻踏みタイトルをはやらせたことがある。私の作品をいくつか挙げる。
リズム はずむ
韻踏みタイトル拝見す あなたの作品ハイセンス
四月の札幌まだ零度C 桜前線待ち遠しい
掲示板荒らすワル アドレスはすぐ変わる
ルータの故障? どうしましょう
ほかにも、ネットフレンドたちからのいろいろな作品があった。
 また、私の電子掲示板では、タイトルを書かずに投稿すると、次のような省略時タイトルがランダムに選択されて補われるようになっている。
(タイトル 省いとる)
(表題 ないんだい)
(このお話 お題はなし)
(題目 沈黙)
(あんまり気がせくと 書けないサブジェクト)
(無理して題名 書くことあるめえ)
(めんどくさい表題 勘弁してちょうだい)
(お題浮かばん 掲示板)
(お題をどうこう 言わずに投稿)
(タイトルルーレット 今度はどれゲット)
これは、ネットフレンドたちには好評であった。
 私は、電子掲示板で韻踏み返しという遊びをしたこともある。たとえば、写真が趣味のネットフレンドが「謹賀新年」というタイトルで書き込みをしてくれた時に、「写真一念」というタイトルで返信を書いた。
 また、韻踏み標語も面白いだろう。
社員証 付けましょう (会社)
待とうよ青信号 左右をよく見てゴー (交通)
こらこら走るな廊下 なぜあわてるのだろうか (学校)
 これらのような言葉遊びは、人によっては作るのが楽しいだろうし、聞く人にも脚韻がよくわかるだろう。

絶望認め 最後のまとめ
 私は、日本語脚韻についての定説を盲信することなく、また、自己流の独善に陥らないよう自戒しつつ、日本語脚韻に特に関心を持っているわけではない一般の人々をいかにしたら脚韻で楽しませることができるかを追究してきた。その結果気付いたことは、日本語の長い歴史の中で脚韻が発達しなかったことにはやはり理由があったということだった。その理由がわかったことが、私の5年にわたる日本語脚韻の研究の成果である。
 二重韻をたくさん踏めることは、日本語脚韻を志向している人たちが実証している。しかし、一般の人々には二重韻の多くは聞いてわかりにくい。それは、日本語に強勢アクセントがないことと、日本人の脳が日本語の子音と母音を分離して聞き取らないことが原因である。拡充二重韻は十分に脚韻とわかるが、探しにくいので、これで長い詩を貫くのは困難である。
 句末の音を合わせるという縛りを自らに課して日本語脚韻詩を作るのは、人によっては楽しい。縛りを課すことによってかえって創造力がかきたてられることもある。しかし、読者が脚韻をわかってくれることは期待すべきでない。多くは無理に気付こうとしなければ気付けないのが日本語の二重韻なのである。
 私は中国語を知らないが、中国語の脚韻は聞いてわかる。私の友人は、フランス語を知らないが、フランス語の脚韻は聞いてわかると言った。日本人でさえ聞いてわからない日本語の二重韻は、人為的な規則による面白いワードパズルではあるかもしれないが、それ以上のものではない。聞く人を音の響きで自然に魅了することのない脚韻は、大衆に支持されることはないだろう。
 中国や欧米のように日本でも脚韻詩作りが大衆に普及することは、これまでなかったし、これからもないだろう。自分の満足のために脚韻詩を作るのはよい。しかし、作る自分が楽しむだけでなく、他人をも脚韻の響きで楽しませたいと思うなら、脚韻詩でそれをしようなどと思わず、拡充二重韻の短句くらいにしておいた方がよい。それが、我らが母国語・日本語の身の丈に合った脚韻の楽しみ方である。

(論文一枚 これにておしまい)
2007年2月11日


オリジナリティ宣告
 2009年9月、レポートレポートJPのサイトに、「日本語脚韻詩論」と題する、目次構成が本稿に酷似していてあらましの文もほぼ同じである学生レポートが発見されました。その登録日は2009年7月30日、作成時期は2009年1月、講義科目名は「演習I(国語学)」、評価は「A(良)」とありました。
 レポートレポートJPに訴えたところ、同社は2009年9月7日に掲載を削除するとともに、作成・登録者に私への謝罪を促してくださいました。当人からは私に、レポートをレポートレポートJPに登録したことについての謝罪の言葉はありましたが、盗作であったことを認めて提出先の指導教官に謝罪することには応じませんでした。
 このため、「日本語ではなぜ脚韻が行われないのか」の考察のオリジナリティがこの学生にあると誤認した人が存在する可能性があります。それは、私の名誉を傷付けることです。
 私は、本稿に記載した考察のオリジナリティが私にあり、学生レポートの作成時期である2009年1月よりも前の2007年2月11日にインターネットに公表していたものであることをここに宣告します。

レポートレポートJPに掲載されていた目録
題名:日本語脚韻詩論
カテゴリ:言語学 > 音声・音韻
大学所在地:京都
枚数:5ページ
登録日:2009-07-30
資料作成時期:2009年1月
登録ユーザ:lune0etoiles
講義科目名:演習I(国語学)
与えられたテーマ・課題:卒論に向けた研究
参考文献:
 坂野信彦 「七五調の謎をとく―日本語リズム原論―」 1996年10月 大修館書店
 角田忠信 「日本人の脳」 1978年1月 大修館書店
 佐藤良明 「J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ」 1999年5月 平凡社
評価:A(良)
オリジナリティ・特徴:日本語の韻律は、何故、脚韻ではないのか、ということを調べています。

目次
はじめに
漢詩から得る発想
響かない二重韻と日本語のリズム
英語のギャップとラップ
響くものが少ない二重韻
子音と母音の癒着
拡充二重韻とキャッチコピー
まとめ

はじめに 詩の分野で日本語脚韻を志向する人々は、脚韻は末尾一音とその前の一母音を合わせる二重韻であればよいとしているが、実は、一般の日本人は二重韻を聞いても脚韻と認識できないことが多い。恐らくそれは、日本語の言語特性に原因があると考えられる。末尾二音を合わせる拡充二重韻なら十分に脚韻と認識できるが、大変探し難く、それ故長い詩を貫くのは困難なのである。結局、日本語脚韻詩が大衆に普及することは絶望的であり、多くの人が作れてしかも一般受けする希望があるのは、キャッチコピーに見られるような、拡充二重韻の短句くらいである。そこで今回は「日本語脚韻は難しいものである」する根拠とその原因を探りたいと思う。

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