言葉が変化する時、眉をひそめる人は必ずいるものです。たとえば「見れる」「食べれる」などのいわゆる
ラ抜き言葉を「間違った日本語だ」と批判する人は、特に知識人に多くいるようです。
私も、ラ抜き言葉に違和感がないでもありません。しかし、それは標準日本語に定着してほしい言葉だと思っています。なぜなら、合理的で便利な言葉だからです。
たとえば、柔道の実況中継で「山下、投げられません!」では、山下選手が相手選手を投げることができないのか、山下選手が相手選手によって投げられることなく踏ん張っているのかが区別できません。「投げられる」には可能と受身の両方の意味があるからです(さらに尊敬の意味もありますが)。「山下、投げれません!」ならば、投げることができないという意味と判別できます。
五段活用動詞については、可能形と受身形の区別はすでに標準日本語に定着しています。たとえば「聞く」の可能形としては「聞ける」が定着しており、「聞かれる」を可能の意味で使うことはほとんどなくなっています(例外的に、可能の意味での「行かれる」はまだ残っているようですが)。上一段活用動詞(「見る」など)や下一段活用動詞(「食べる」など)についても、可能形を受身形と区別できた方が合理的です。ラ抜き言葉とはその可能形であり、広島弁では昔から定着しているものです。
私は、フォーマルな文章にはやはり「見れる」は避けて「見ることができる」のように書きますが、話し言葉やくだけた文章では「見れる」を使います。ラ抜き言葉に違和感を持たない人は増えつつあるそうです。いずれ標準日本語の文法として認知される時が来るでしょう。
さて、そんな私にも苦々しく思える言葉があります。尊敬表現と謙譲表現の混同です。「ご利用できます」がその典型例です。
「ご(お)-○○-する(できる)」は、「(私はお客様に)ご説明できます」という例からわかるように、謙譲表現(自分の行為をへりくだることによって相手への敬意を表す表現)です。「利用」というお客様の行為について敬意を表すには、「ご利用になれます」または「ご利用いただけます」と言うべきです。しかし、「ご利用できます」は、一流の会社の宣伝や製品マニュアルにもよく見かけます。
ここで、尊敬表現と謙譲表現の区別を例示しておきます。
- お客様が私に要求条件をご説明になる。
お客様の行為についての尊敬表現。「なる」を「なれる」に置き換えれば可能形。
- 私がお客様に製品仕様をご説明する。
自分の行為をへりくだる謙譲表現。「する」を「できる」に置き換えれば可能形。
- お客様、私どもに要求条件をご説明ください。
お客様に依頼する行為についての尊敬表現。
- 鈴木さん、お客様に製品仕様をご説明してください。
身内の鈴木さんにていねいに依頼する表現だが、鈴木さんがお客様に対してへりくだるよう依頼する表現。
ここからわかるように、「ご説明」と「ください」の間に「して」が入るかどうかで、謙譲と尊敬の意味が正反対になってしまいます。店員が客に「お支払いしてください」と言えば、店に対してへりくだるよう客に要求するという失礼な言い方になってしまうのです。
ほかにも、尊敬表現「くださる」と謙譲表現「いただく」の混同も気になります。たとえば「ご利用いただきますようお願いいたします」。
「くださる」は、相手を高く見て、低い位置にいる自分に相手がものや行為を「下す」ということに由来するもので、相手の行為についての尊敬表現です。「いただく」は、山の「頂(いただき)」と同語源で、高く捧げ持つことに由来し、相手からものや行為を低い位置で受け取るという自分の行為についての謙譲表現です。つまり、「ご利用くださる」の主体はお客様、「ご利用いただく」の主体は自分です。「お願い」することは、お客様の「利用」という行為ですから、「ご利用くださいますようお願いいたします」と言うべきです。自分がお客様に「ご利用いただく」ことを自分に「お願いする」のは変だということになります。
なお、「ご利用いただけます」は、「私どもはお客様にご利用いただくことができます」という謙譲表現ですから、お客様の「利用」という行為に敬意を表す正しい言い方です。
とはいえ、尊敬表現と謙譲表現を混同しても間違いにならないこともあります。「ご利用くださり、ありがとうございます」が正しいのは当然ですが、「ご利用いただき、ありがとうございます」も、「
私どもはお客様にご利用いただきました。それはありがたいことです」と解釈できますから、論理的におかしくないと考えられます。こういうこともあるので、「ご利用いただきますようお願いいたします」という言い方もしてしまい、それに違和感を持たない人が多くなっているのかもしれません。
尊敬表現と謙譲表現の区別について以上述べたことを、非常にややこしいと思われた方は少なくないだろうと思います。私もそう思っています。ですから私は、「ご利用できます」などの誤った言い方を苦々しく思う一方、こんなややこしい言語規則は長い間にもっと擦り切れてもよいとも思っています。
外国語にも、敬意を表す表現はあります。たとえば英語に「be pleased」という言い方があります。これは、高貴な人についても自分についても使う言葉です。
The Queen was pleased to come. |
|
(女王様がおいでになった。) |
I will be pleased to help you. |
|
(喜んでお手伝いいたしましょう。) |
つまり、尊敬表現か謙譲表現かという区別なく敬意を表すことができる言葉です。
「ご利用できます」や、「くださる」と「いただく」との混同は、尊敬表現と謙譲表現の区別という規則が擦り切れ始めていることの現れかもしれません。「(私はお客様に)ご説明できます」はお客様への敬意を表しつつ自分の行為を述べる表現、「(お客様は)ご利用できます」はお客様の行為に敬意を表す表現で、どちらにしても接頭語「ご」で敬意を表しているのだからそれでよいではないかという考え方もできるかもしれません。これらの混同が定着してしまえば、敬意を表す表現は英語のような単純さに近づくことになるでしょう。
言葉で伝達すべき情報の質が変わるにつれて、情報伝達に必須でなくなって頭脳に無駄な負担を強いるだけになった言語規則は捨て去られていくものです(古文で習った“係り結び”の文法もその一つです)。言葉が変化しつつある過渡期には「誤りだ」と批判される語法も、定着してしまえば、それが正しい言語規則だとされます。こういうことは、どの言語にも起こっていることです。
私はあくまでも尊敬表現と謙譲表現の区別を間違えないようにしたいと思っていますが、これらの間違いが定着していく可能性は高いと思っています。その変化を決定付けるのは、学者や知識人ではなく、大衆です。